ヒゲニートのギリホリ奮闘記

ヒゲニートのギリホリ奮闘記

30歳が突然脱サラしてヒゲニートになり、年齢ギリギリでワーホリに挑戦するログ

ヒゲニートへの道 p.10

f:id:sugayan:20191124123301j:plain

子供たちに連れられ、ここがどこかも分からないまま、山頂らしい所まで来た。

 

 

写真を撮ったり、彼らが躍るムービーを撮ったり

 

とにかく

 

 

オレに!

 

アタシに!

 

 

構って構って!!

 

 

 

と彼らは大忙しだ

 

 

 

なんて自分の感情に素直なのだろう

 

 

 

自分が小さい頃は、周りの目や空気をかなり気にするタイプだった

 

 

大きな反抗期もなかったらしい

 

 

かといって友達がハマっている事にも興味は示さず

 

 

この頃から独りの時間が結構好きだった

 

 

 

 

そのせいかは分かないが

 

特に小中学生の頃は、決して感情表現が豊かではなかったように思う

 

 

 

実際に他者から見てどうかは分からないけれども

 

 

「子供の頃は、なるべく感情を表に出さないようにしていた」

 

「そもそも、感情が大きく揺さぶられる事があまりなかった」

 

 

という、謎の記憶が残っている

 

 

 

 

未だに「感情のままに」…みたいな事は苦手だが

 

 

思った事、感じている事、自分の意志

 

 

など

 

はっきりと言語化して伝えられるようになったのは、ちょうどこのネパール旅行に行った頃からかもしれない

 

 

 

自己主張は高校の頃から強かったし、周りと違う事に関しては昔から気にしないタイプだった

 

 

 

 

周りの目は気にするけど、周りとの違いは気にしない

 

というのが、子供の頃の自分を上手く表現した言葉かもしれない

 

 

 

違いに焦点を当てず、ただ、自分がどう見られているかは気にする

 

 

そうなると、実際の自分と比較対象になるのは

 

 

「自分がどうあるべきか」

 

 

 

 

「あるべき自分として、ちゃんと見られているか」

 

 

 

 

 

 

ほんの数年前まで

 

私は自己の意志と、理想に対する自己嫌悪

 

 

この双方を常に持っていた

 

 

 

それを悪いと思った事はなかったし

 

 

自己嫌悪に多少苦しむ事はあっても、精神を病むような事は一度もなかった

 

 

 

 

 

ただ、この子供たちを見て

 

 

 

彼らは「こうあるべき」を持っていない

 

 

という事だけは明確に分かった

 

 

 

 

 

 

良い悪いは別として

 

「こうしたい」

 

「こういう感情だ」

 

 

というのをストレートに表現する彼らは

 

 

私が持ち合わせていない感覚かもしれない

 

 

 

 

 

「自分はこうあるべき」と、それに伴う「自己嫌悪」

 

 

私はずっとこれを持っていたな

 

 

と、初めて客観的に気付いた気がする

 

 

 

 

 

別に自分が嫌いではない

 

 

無垢な子供が羨ましいかと言われると、それも分からない

 

 

 

 

 

 

ただ、事実として

 

 

彼らにあって私にないもの

 

 

 

 

いや

 

 

 

彼らが手放していて、私が大事に持っているもの

 

 

その違いに、ただ純粋に興味を抱いた

 

 

 

 

 

 

彼らのようになりたい、子供の心に戻りたい

 

 

という気持ちは、少なくともこの時は感じなかったが

 

 

 

 

難しい事を抜きにして

 

 

感情ストレートに爆発させ私を連れまわす子供たちといる時間は

 

 

とても楽しく幸せな時間だった

 

 

 

 

 

 

あー子供ってキラキラしてる

 

見てるだけで、一緒に笑っているだけで幸せな気持ちなる

 

 

 

やっぱり自分は子供が好きだな

 

と思ったのと同時に

 

 

 

 

 

子供から、学べる・気付ける事が沢山ある

 

 

と初めて思ったのが

 

このネパールでの、数時間に及ぶ子供たちとの山散策だった

 

 

 

 

彼らは手放しているのに

 

どうして自分は大事に「あるべき自分」を持って

 

いつも「自己嫌悪」と戦っているのだろうか

 

 

 

 

その違いはなんだろう